真宗教団は日本人の合理的思考を促してきたか?
—近江商人と浄土真宗そして近江の被差別部落の皮革業を通して—
はじめに
差別(行為)の定義には多様なものがあり一言で表現するのは容易ではないが、野口道彦氏によると
① 個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で
② 普遍的な価値・規範(基本的人権)に反する仕方で
③ もしくは合理的に考えて状況に無関係な事項に基づいて
④ 異なった(不利益な)取り扱いをすること
ということになる。(部落解放研究所編「部落問題 資料と解説」第二版)
①はつまり人を個人としてみないで、その属している集団、組織の特徴と一般的に思われている(又は思い込まれている)特性のみをもって人を判断するということであり、簡単に言うと事実に基づいた個人の分析の放棄である。
その当然の結果として起こることは、個人を判断するのに際して誤った、そしてその個人とは関係のない非合理な理由が用いられ(多くの場合差別する人の周りにある偏見がそのまま処理されずに自分の判断として受け入れられ)その個人に対して不当な扱いがなされるのである。
以上のように考えると、いかに合理的思考、分析が差別問題の解消に重要であるかということが理解できる。
常々私は差別をする者は自分の分析能力のないことを、つまり愚かなことをさらけ出してい ると考えているが、日本人の特性としてよく議論される、付和雷同、権威主義、物まね上手、集団主義などは結局、個々の人、物を客観的・合理的に分析する
ことを放棄した結果ではないかと思われ、陰鬱な気分になってしまう。
あらゆる場所での占いの氾濫、お守り、お札、心霊現象への興味等々。未だに大の大人がこのように合理的思考、分析を放棄し、すすんで物事の決め付けに身を委ねる国は、資本主義国といわれる国においてはあまり例がないのではないだろうか。(私は北米に6年間住んだが、テレビで「あなたの運勢は」とやるのを一度も見た事がなかった。どうして皆「あんたに私の運勢について勝手にとやかく言われたくない」と怒らないのだろうか)
ところで 真宗教団は(少なくとも建前上は)迷信俗信からの解放ということを宗派の根幹に置いてきた教団である。本願寺派の教章にも宗風として、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信に頼らない」とある。それは、往生(救済)がただ信心(信仰)によってのみ可能である ということと、信心の定まるときに阿弥陀仏によって往生が決定した後には、来世、後生を心配する必要がない以上、因果の道理で説明できないような非合理な行為に現世に於いて引きずられる理由はなく現実の合理的生活に、阿弥陀仏に対する報恩感謝の気持ちで全力を尽くすという門信徒の生活規範を示しているのである。
このことは、宗教が近代民主主義国家の成立を阻害してきたとされるアジア諸国と比して、わが国において浄土真宗が社会学、歴史学的にみて、例外的な評価(つまり宗教が国の近代化につながりうるアジアにおける数少ない例という評価)をされることにつながっている。
『宗教社会学論集』のなかでマックス・ウェーバーは 封建制が近世日本における市民層の発展を阻害したと述べた上で、日本の宗教諸派の社会的役割について次のように著している。
「浄土真宗を除いて大部分の諸宗派は、在俗信者を部分的には極度に非合理的な敬虔なる方便にたよらせているが、それは彼らを合理的な生活方法に教育するなどとはおよそ縁遠いものである。実際、在俗信者の間における仏教のこの形式は、ただ世間に関する無関心や、無常なるもの、すなわち人生を含めての世界の無価値なることの確信という一種の一般的な気分を生じさせ、さらに因果応報の教義とそれから逃れるための手段としての呪術を広めたのであった。」
1920年ごろに著されたこの言葉は 未だに占いやおみくじの結果に一喜一憂する我々の社会風潮に深刻な問いかけをしているのではないだろうか。
現在の社会科学の重要な理論的基礎を作った彼は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (1904‐05年)のなかで初めて宗教(プロテスタンティズム特にカルヴィニズム)が資本主義(合理的経済という意味での)を作ったと主張した。その大
きな理由がプロテスタントの一セクトであるカルヴィニズムが人々を呪術的思考から解放したことだというのである。
我々は21世紀になってますます資本主義経済にどっぷり浸かって生きざるをえなくなっている。
ある人々は資本主義の行き過ぎに対しての異を唱えるであろう。が、しかし資本主義を経済における合理的思考に基づいたルールと捉えれば、社会の公平さを保つための(例えば、福祉というような)他の社会のルールと共存
していけるのであるし、又そのための努力は資本主義によって妨げられるものではないだろう。
それよりも、縁故採用であるとか不透明な取引関係のような、およそ資本主義と相容れない慣習が経済システムの中に未だ残っているこの社会について、「日本には本当の資本主義はない」という指摘がされることのほうを危惧すべきであろう。
滋賀県内のある被差別地域の方が「私の若いころには、ある商店に買い物に行くと部落のものが支払う金を入れるザルが別にしてあってそこに入れられた金は後で洗われるということだった。」と話しておられたが、こういう全く経済合理性を欠いた思考が続くのであれば 日本の社会に人権主義は勿論のこと真の資本主義も育たないであろう。(こう書いてきて、よそ事ではなく我が教団で元総務が賄賂性の金を贈るときに「これはエタの金ではない」と発言した事件を思い出してしまった。
大体僧侶というのは経済の重要性を理解することも真摯に受け取ることもしないで、金銭について、きれい、きたないという偏見に満ちた判断をする傾向があるように思う(そのこと自体非常に差別的な思考である)。
経済活動に携わることを「あいつは商売人だ」とばかにしておいて布施の多少を口にし、汚いといっていた金銭が寺院活動にあてられた途端に浄財との言い換えをしてはばからない。そこには穢れたとされた、しかし必要な仕事を被差別民にさせておいて自分は罪を感じないでいる卑怯で愚かな封建制下の大多数の差別民と同じ思考が見てとれる。)
以上述べてきたように、浄土真宗における信仰の純粋性、絶対性と資本主義の成立に必要な合理的思考は、呪術性の排除という点において関連しているという指摘が多くみられることに留意したい。
わが国においては経済学的に資本主義の成立は明治維新以降であると考えられているが、その萌芽は、さかのぼって封建身分制下の社会にも見られるという研究がなされている。そのなかで多くとりあげられていることの一つが、やはり浄土真宗とのかかわりである。
ここでは主に、近代的商業システムの基礎を築く大きな役割を果たしたといわれる近江商人(このことについては次のような記述が一般的なものであろう「近現代日本の有名商社のうち,近江商人の系譜をひくものが多いのも, 近江商人の経営が現代に適合していることを示している。 仲村 研」平凡社大百科事典による)と浄土真宗のかかわりを注目したい。
近江における浄土真宗の勢力については次のような数字を参考として挙げたい。明治7年末において滋賀県下の仏教寺院のうち59.4%、1798ヶ寺という圧倒的多数が浄土真宗の寺院である(ちなみに第二位は天台宗の
16.5%)。こういった地域の宗教事情の中で近江商人の商業倫理、人生観に対して浄土真宗はその教義的特色から本当に経済合理的思考という土壌を与え、得たのかどうか考察を加えてみたい。
また同時に、近江というある意味で厳しい封建身分制度のあった地域において、彼ら近江商人が近隣の被差別地域とどのようなかかわり方をしていたのかを考えたい。彼らの思考がもし合理的思考といえるようなものであれば、それは被差別民に対して、他の人々がかかわるのとは違ったかかわり方をすることになったのかどうか。
最後に、浄土真宗が近世の身分制社会にあって、その合理的であるはずの教義的特色によって、身分制という封建制度のなかでも特に非合理な制度において、その解体、打破に資するところがあったのかどうか考察を進めてみたいと思う。
以上がこの小論の意図するところである。なにぶん大きなテーマであるので限られた中で書き尽くすことは不可能であるが、自分自身が真宗と社会とのかかわりという事を考えるうえでの一つの材料になればという気持ちで筆をとった次第であり、至らぬ部分についてのご教示をいただければ幸いである。
近江商人の特色
近江商人とはよく耳にする言葉であるが実際はどのような人々であろうか。近江商人を多く輩出している五個荘町の町史によると
「近江商人とは、近江の国に本拠を置く、他国稼ぎ商人のことで、その出身地は湖東三郡(蒲生郡・神崎郡・愛知郡)八幡商人、日野商人、五個荘商人などによって代表される。―略—そして、そのような近 江商人がもつ経営上の特色、すなわち近江商法の特色として、江頭恒治は次のような点を上げている。第一に呉服、太物、麻布、蚊帳、漆器、小間物、合薬
など多種多様の商品を取り扱う行商形態をとったこと、第二に全国各地に支店を出したこと、第三に商業だけでなく、金融業、醸造業、油絞業、漁業など営業の種類が多岐にわたったこと、第四に共同企業形態や会計帳簿などに見られる合理的な経営。
しかしながら、これらの特色は、いずれも近江商人にのみ特有なものばかりでなく、近世商家において少なからず見られた特色でもあった。たとえば、全国的な支店網や合理的な会計帳簿の存在などのように、個々の特色は近世商家においても一般的に見られた特色である。近世商家で用いられていた経営方法を他国稼商人である近江商人に適合する経営方法にまで高めたのが近江商人の経営であり、それは近世的合理性をもっていた。(『五個荘町史 第二巻 近世、近現代』五個荘町史編纂委員会 353-354)
近江商人への偏見とその構造
このように合理的経営という点を指摘されることの多い近江商人の歴史は鎌倉時代後半にさかのぼるといわれているが、近代以前の社会においては、その合理性が社会に好意的に受け入れられない場合が多かったのも事実であろう。「近江泥棒、伊勢乞食」という言葉が示すように、江戸時代には徹底した利潤追求が揶揄されていた。そして残念ながら、ある意味で現代においても、それは一種の地域に対する差別的偏見として残っているように思われる。
例えば、近江商人を引き合いに出されて、金銭に対して必要以上に執着する人間のように言われるというようなことを、多くの滋賀県出身者が経験しているのではないだろうか。このことは全くの事実誤認であると同時に(例えば、近江商人が私費を投じて行った橋の架設などの公共事業や、神社仏閣への寄進は枚挙に暇がない)、私のように甲賀地域という殆ど近江商人を輩出していない地域の出身者であっても、近江商人に対する誤認した事実を当てはめられるという二重の偏見の対象になった経験をしていることを考えると、いかに人々の他人に対する認識が非合理的なものでありうるのかと考え込まざるを得ないのである。また、先ほどの元総務の差別発言を出すまでもなく、我々宗教人の中において特に経済合理性への意識が低いことを感じる。金銭のことに口出しすることに後ろめたさを感じるということは、裏を返せば経済活動や特に生産を伴わないところの商業、流通活動全体に対して差別的感情を持っているということである。
これは、ある程度日本人一般についていえる傾向かもしれない。私が北米での生活で最初に感動したことの一つは、店で買い物をしたときに必ず買った側が礼を言うことである。何に対して礼を言うのか。品物を包んでくれたこと、金銭処理など必要な手続きをしてくれたことに対してである。
人と人との関係として考えればあたりまえのことが日本では行われない。客は買ってやったとばかりに金を投げてよこす。客と売り手の関係という身分の関係でしかなく、売ってくれた人を個人として、人としてみないからこういう悲しいやり取りが現代においても続いていく。レストランでの客とウェイター、ウェイトレ
スとの関係も然り。又反対に店のほうも客を個人としてではなく客という身分でしか見ていないから、丁重に扱っているように見えて個人の細かい必要性(例えば車椅子への対応等)に対して無神経、無関心という慇懃無礼な態度が多く見られる。日本では人を個人としてみないで帰属する団体、組織の一構成員としてのみ扱うという傾向が諸外国と比べて非常に強いと思われる。
友人の会社に電話をしてこちらが名を名乗り「〇〇ですが、XXさんお願いします」と言うと、必ず会社の受付のほうでは「どちらの〇〇さんですか。」と尋ねてくる。所属意識の薄い私は返答に困ってしまうのである。たとえば無職の人はなんと答えればいいのだろう。社内教育でそういう受け答えをすることになっているのだろうが、「私は私です。」と開き直りたくなってしまいたくなるのだ。
所属を明らかにするのはあたりまえだと思う人がいるかもしれないが、北米で人と話すのにどの会社に電話をしても「どちらの〇〇さんですか」などと聞き返され
たことは一度もない。家制度の弊害を始め、個人が個人としてのみ扱われるという民主主義ではあたりまえのことが日本では未だに行われていないといわざるを得ない。
近江商人の経済倫理
さて、建前上は金銭を扱うことが卑しいとされるような風潮が、現在よりはるかに強かったであろう江戸時代のような時代に、このような徹底した利益追求をしたという近江商人は、どのようにその行為を正当化し自己の経済倫理、経営観を築いていったのだろうか。
経済学者 小倉栄一郎氏は近江商人の経営観についての研究で著名であるが、五個荘地域 の近江商人中井家の初代 源左衛門が、その生涯の企業活動から得た経験と教訓を元に、後代への戒めとして法然上人の一枚起請文に模して書き残した『金
持商人一枚起請文』を近江商人の経営理念をよく表すものとして取り上げた上で次のように記している。
「—略—ここには全体として営利に対する罪悪感はみじんも存しない。—略—この間に「運」ということはありえない。—略— 運に乗ずることなしに富を致すことが勧奨されること自体の意味を理解しなくてはいけない。
江戸時代の一般的体制は株仲間を基礎にした封建体制であって、それはウェ–バーのいう「伝統主義的経済」を保守する規制の下に平安な牧歌が流れていたのである。
このような体制の中で経済合理主義に徹した競争原理は、日本では意外に早く、天和年間(1680)にはすでに始まっていたのである。その一つのメルクマールは「薄利多売」方式であることはウェ–バーの指摘するところである。
中井家の歴史の中に明瞭に薄利多売を唱えた文言はないにしても、初代が創業して30年 も経てば、実績がそれを物語るにいたるのである。それ以上にもっと明白な事実は、近江商人なるものが、伝統主義的経済に対して、常にその打開を目指す進歩
的因子であったことと、初代が伏見店を根城にして西陣の糸問屋の機業地支配体制に反逆する競争を仕掛けたことのごとき、競争原理の担い手であったことをもってすれば、ウェ–バー的「資本主義の精神」の息吹を感じるのである。」(「経営理念と宗教」研究紀要第3号 滋賀大学経済学部付属資料館)
と、自己の才覚以外に頼ることはないという経済合理主義の萌芽を指摘している。
このことは商売繁盛に神頼みの縁起物を求める現代の風俗と比しても、なんと合理的な経済観であろうか。そこには封建的身分制度における人を身分によって分
類して後に応対するという考えを超えていくものが含まれているように思える。なぜなら薄利多売に現れるような資本主義的思考は、身分によって分断された社会よりも市場の規模を極大化するために必要な平準化された垣根のない社会を志向するからである。
ところでここで「家」について述べておきたい。近江商人の家には家訓が残されているものが多くある。そこには経営理念、人生訓の類がちりばめられているのだが、結局商家としての「家」の存続を願ったものである。
ここに個人主義を基盤とした現代資本主義との大きな違いを見、封建制社会に生きた近江商人の限界を見るのである(日本に現在個人主義が根付いているかどうかの議論は別にして)。
ただし、ここでいう家はその戸主とともに運命をともにするのではなく、商才のない長子は追い出されたり、番頭が店主の不行跡を諌めたりする事が奨励されるように身分の序列に優先する、ある意味で合理的機能をもった組織としての家である。(五個荘町史 第二巻第7章第2節「五個荘商人の精神生活」柴田 純)
前述の小倉栄一郎氏は『経営理念と宗教』のなかにおいて「このように『家』というものが、肉親とか家系といった個人の関係を離れて、継続的な経営体であると
いう考え方ができていたことが推察されるのである。」と記している。こういう近江商人の『家』が近代以降の同族経営的色彩を強く持つ日本の会社組織につながっていったというのは、うがち過ぎであろうか。
江戸時代の身分制度について
さて、このような近江商人の合理主義的志向は、当時の厳しい封建身分制社会において実際に身分の垣根を越える方向に働いていったのであろうか。結論から言うと、私の力不足ということもあり、その具体的な証左を得ることは出来なかった。ただ此処ではいくつかの具体例を挙げて推察の一助としたい。
江戸時代という時代が身分制度をもとにした徹底した差別社会であるということは論を待たないであろう。
問題は具体的にどの身分がどういう差別の位置にあったかということである。よく江戸時代の身分制を表す言葉として士農工商ということがいわれる。現在の学校教育においてもそういう表現が使われているのではないだろうか。
もちろん、身分制社会の常としてそれぞれの大まかな身分区別の中にも細かい序列、身分が存在することが容易に想像され、武士の中にも石高や将軍へのお目見えの有無によって厳然たる差別があったことは各文献に記されている所である。しかし各身分間の壁の厚さは一定ではないということは、よく留意することが必要である。
武士の間ではその行賞によって身分の移動が可能であっただろうし、幕藩体制の権力からは、被支配者層を農工商と区別したうえで厳密な、そして相互に移動不可能の身分構成として捉えることはしないで全体を「平人」として捉えていたということである。(斎藤洋一『身分差別社会の真実』による)
斎藤氏によると「百姓身分のものが町人身分になってはならない、あるいは逆に町人身分のものが百姓身分になってはならないとした法令がないわけではないものの、実際には結構、百姓身分のものが町人身分になったり、町人身分のものが百姓身分になったりしている。」(同書)ということである。
近江においても、五個荘地域の近江商人は在地商人と呼ばれ、建前上は百姓身分でありながら藩の許諾を得た上で他国稼ぎの商売を行っていたことが知られている。(「五個荘町史」第二巻第四節「近江商人の在村形態」より)
身分間の交流について
そしてここで最も注目したいのは、「平人が武士になることはそれほどなかったし、また平人が「えた」「ひにん」などになることはめったになかった。」(同書)ということである。(下線筆者)
平人、武士間の身分間交流については、幕末に近くなると藩財政が破綻するような状況の中で 武士身分で商売に手を染めるものが出てきたりしたことはよく知られるところであるし、後述するように近江商人など大商人の中には経済力と引き換えに苗字、帯刀という形で武士身分を手に入れるものが輩出している。
ここには、基礎となる条件においての不公平性という事はもちろん考慮しなければならないものの、ある一定の経済合理性は働いていたと見てよいであろう。損得勘定が働くということは合理的思考が働いているということである。
しかし、「えた」「ひにん」と呼ばれる賎民身分の人々が、公家や武士はもちろん、百姓や町人からも一線を画されていたことについて大石氏は「彼らは、『人外』、すなわち同じ人間ではないかのようにみられ、人間づきあいから「排除」されていた。」としている。ここには一片の合理性も無いのである。
近世の被差別民が生活のなかでの『平人』との交流を制限されていたことは数多く報告されている。それは、ただなんとなく付き合わないということではなく、幕府や諸藩の公式な規定として交流の制限があったということである。
例えば前掲書において斎藤氏が挙げている例として、加賀藩の郡奉行が「えた身分の者を平人と交際させてもよいかどうか」の問い合わせに対して答えた文書がある。それによると「そういうことを記した役所の旧記はないが、元来「えた」身分のものは「人外の者」で、皮商売のほか、平人と交わってはならない者たちである。そこで、「えた」身分の者へ、人が群集する場所へは出ないように申し渡しておいたので、そのように心得られたい。」との記述が見られる。また、幕府諸藩の記録から、被差別民と平人が人的交流をしたことによって、実際に被差別民側も平人側も処罰された例が複数報告されている。
経済合理性の無視
ここで 経済合理性の無視ということでの一例を報告してみたい。文政7年(1824)3月のこととされる『宝暦現来集』巻の十に収録されている話を中尾健次氏が『江戸時代の差別観念』で取り上げているものである。「近江の、とある町家の所持していた仏壇が売りに出された。あまりにも高価なもので、誰も買おうとしない。そこへ大阪〇〇村の「えた」が、1000両で買いたいと申し出た。ところが持ち主は、たとえ買値が高くても、「えた」に売るわけにはいかない、値段を下げても市中の町人に売りたいという。その理由は、たとえ売り渡しても、時々は拝礼に行きたい、しかし、相手が「えた」ならばそれもできないから、というのである。この話には、「差別」の根拠がまったく示されていない。売らない理由は、相手が「えた」だからだ、ではなぜ「えた」には売らないのか、時々の拝礼が出来ない
からだ、ではなぜ拝礼が出来無いのか、相手が「えた」だからだ。この堂堂巡りは、「差別観念」が“論理”ではなく、文字通り“観念・心情”であることを示
している。—略— ここに、差別観念の空虚な本質がある。まさに、差別に「理由」はいらない、とでもいうかのごとくである。」(下線著者本人)
この話はいくつかの点で大変示唆に富んでいると思われる。
まず、前述したように差別意識というものが合理性の無いところにこそ生じるものであるという考え方をまさに裏付けるような話であること。
そして近江商人の例のように、平人身分の場合は経済合理性によって身分上昇の恩恵にあずかる可能性があるのに「えた」という被差別で人外の身分の場合は、1000両をだして仏壇を購入できるほどの経済力があっても、人付き合いの制限という非合理性の殻を破ることが出来ないということである。また、少なくともこの町人の場合は宗教と身分差別が、当然のように矛盾しないで同居していたということでもある(このことは後述するように真宗の教団内の僧侶においても全く同じ状況であって驚くにも値しないことかもしれない)。
非合理性と穢れ意識
経済合理性の通用しないような、身分差別の底に横たわる意識とは何かと考えるに、やはり私には穢れ意識しか思い浮かばない。熱湯で消毒されたはずの茶葉の残
りを汚いごみと意識するとき、きれいに掃除されたトイレのスリッパで茶の間に入るのを嫌がるとき、そこには合理性は無い。
この非合理の最たるものである穢れ意識が自明のこととして一般民衆の隅々まで受け入れられたからこそ、21世紀になろうとする今日までこの情けない問題を我々は引きずっているのだ。被差別身分の人々は権力によって人付き合いを制限されたと述べたが、この町人の例でもわかるように、一般の平人身分の人々も進んでこれを自分たちの規範として受け入れてきたのである。斎藤氏が記しているように各地で「えた」身分の人が平人身分の百姓に対して「失礼の無いように敬いを以って接します」と言う趣旨の誓約書を差し入れさせられた記録が残っている。
また近年明らかになりつつあるのは、各地の明治の身分解放令に対する反対の一揆において一般農民が、その自主的な行動により、被差別地域の住民に対して無差別に残虐非道の限りを尽くしたということであるが(『解放令反対一揆の研究』好並隆司編著)ごく普通の民衆をそのような行為に突き動かした動機について、上杉聡氏は同書の中で彼らの意識のなかにある「穢れ意識」を挙げる。
「—略—(エタ身分の人たちが)交わってくるということに対する拒否反応があります。これは、“穢れた人達”が同じ生活圏の中に入り込んでくる、それを排除しようという意識です。—略— 「同火」を拒否するという表現でも、この意識は出てまいります。火を通じて煮炊きをすると、これを通じて穢れが移ると当時は考えられていました。ですから
同じところで食事をしない。部落の人とは茶碗を分ける。また愛媛では、道後温泉に入った人達が叩き出されています。あるいは風呂屋に入れないという事件が
あちらこちらに起こっています。火によってお湯が沸かされている、そこに一緒に入れられたら穢れが移るわけですね。それで叩き出すということになります。
この側面を解明しないと、この一揆について十分分析できないだろうと思います。」
穢れ意識、観念は権力が意図的に導入もし、又民衆の側も積極的に受け入れていったというのが本当ではないでしょうか。ここでは沖浦和光氏の次の記述を挙げてひとまずのまとめとしたいと思います。「五代将軍綱吉が、貞亨・元禄のころに集中的に実施した「服忌令」と「生類哀れみの令」、そして「捨牛馬禁令」が、ケガレ差別を、「浄・穢」観に基づくヒンドゥー教カースト型賎民制として定着させる大きなきっかけになりました。「穢多・非人」という呼称が全国的に定着するようになったのは、幕府のそのような
政策と深く関連していたのです。その先がけが、1,645年 (正保二年)の『神祗道服忌令秘抄』です。それを読みますと、今日の穢れ観念の基礎になるような因習・迷信がすべて列挙されています。そして、「服忌令」
の制定によって、「穢れ」と「忌み」は民衆をも巻き込んだ社会的ルールとなり、穢れによる「触穢」思想の影響は今日まで及んでいるのです。」(『ケガレ
差別思想の深層』沖浦和光、宮田登 55.56)
近江商人と被差別部落
ところでこのような権力からの強制と、民衆自らの穢れ意識によって社会の中で(特に江戸幕藩体制の時代に)非合理な疎外をされていた被差別民、被差別部落は当然、近江商人の活躍した近隣の地域にも存在していた。彼ら近江商人は、それらの被差別地域の人々と経済合理性に基づいた付き合いというものをしていたのだろうか。これが私の興味を持ったところである。
真に経済合理性に基づいて行動するならば、前述の解放令反対の民衆が穢れ意識から被差別部落を襲ったのとは、違う種類の人的交流があってしかるべきではないかと思ったからである。
そこで近江商人が数的に一番多く輩出され、また前述したように在地商人ということで百姓身分でもあった五個荘商人とその周辺を調べてみることにした。近隣地域との交流も多かったのではないかと考えたのである。
現在の五個荘町の区域には管見ではいわゆる被差別地域は見当たらない。これも近江商人の歴史と関係があるのかどうか興味のあるところであるが、手元に資料が無いのでここでは何ともいえない。
しかし周辺地域には被差別地域が点在している。もともと近江の国には被差別部落が多いといえる。その理由としては、特に近世では京都に近いという地理的重要性から、幕府による極端な分割支配が行われ被差別部落を適所に配置して民衆の団結するのを防ごうとしたというようなことがいわれている。そのなかで比較的五個荘に近いA地区というのが、近世から「皮なめし」を主な生業としてきた部落として知られているのでここでとりあげてみたい。
ここで注意しておきたいのは近世の被差別部落がすべて皮に関する仕事をしていたのではないということである。
近世の被差別部落の成立とそれぞれの部落がどういう役割を負わされてきたかということをここで詳述する余裕は無いが、理解したいことは 摂津の国のW村における「太鼓屋」という屋号の家が大金持ちであったということが『世事見聞録』(成立は 1816 年 (文化 13) ころと推定される、著者は〈武陽隠士〉とのみ記されていて,本名・経歴ともに不明)にもあるように、皮を扱っていた部落はある意味で権力からその権利を保護されていて、それによって巨利を得る者があったということである。(ちなみに、このA地区にも「太鼓屋」があり、拙寺をはじめ多くの滋賀の寺院は世話になっているはずである)
なぜそのような支配階級の武士にとっても重要な産業が(武具というものがどういう素材で出来ているかを考えるだけでもわかる)ケガレの対象となったかを考えると本当に不思議であるが、前述のように差別はもともと不合理なものであるということ、また殺生の禁止という思想の間違った広がり(仏教教団も多くの責をおっていると思われる)が関係していると思われる。
皮と近世被差別部落の関係の概略については、平凡社『大百科事典』の横井清氏の記述を参照してみたい。
「皮革の需要は戦国時代に急速に高まったが,各地の戦国大名は競って熟練工の確保に努め,彼らに特権 (職業と販路の独占) を 付与することと引替えに,城下町の周縁地域に緊縛して身分・職業・居住地ともに一般民と隔離する政策をとった。彼らは〈かわた〉と通称されたが,その呼称
に〈皮田,革田,皮多,皮太〉の漢字が充てられたのは,彼らが主として従事した皮革生産に発していることによる。この方針は江戸時代にも堅持され,〈かわた〉は〈えた〉の別称にもなった。 1808 年 (文化 5) に伊予 (愛媛県) の大洲藩において〈えた〉身分の 7 歳以上の男女が胸に 5 寸 4 分角の〈毛皮〉を付け,戸口には〈毛皮〉をつるすよう命じられた例は,〈皮革〉と〈えた〉とが直結され,被差別部落民であることを明示させられた過酷な事例である。」
全く酷い話だが、これが身分社会の現実であった。必要だからこそ集められ隔離された。そしてその結果、穢れ観を引き受けさせられて人付き合いから除外されていったわけである。
被差別部落と貧困について
そのうえ、前述のように富の蓄積も彼らを穢れ意識の被害から救い出すことは出来なかった。現在でも一般の多くの人が被差別部落の問題と貧困の問題とを同根のこととして捕らえている。しかしそれは、はっきり誤りであることが近年明らかになってきているのである。
たしかに、多くの被差別部落が貧困にあえいでいたことは事実であるし、農村の枝郷と言われるような部落では普通、本郷に従属させられ、村の権利関係から除外され、一般農民より困難な貧困にあったことは事実である。が、このA地区のように すでに三百五十年もの昔から自己所有の田地のある地主や百姓が存在したことが確認され、そこに在する寺院(真宗寺院であるが)には住職が外出するときに使われた乗り物籠まで残っているというような部落があるのである。(平井清隆『近江部落風土記』の記述、ならびに当該寺院住職よりの聞き取りによる)
経済的な力さえつけば差別問題は解決するという考えがいかに日本人の穢れ意識を甘く見ているかということが理解できるであろう。
A地区には〇〇家という、皮なめしによって財を成した家があり、江戸期の母屋 新家の二人の当主のことが前述の『世事見聞録』にみえる。それによるとその母屋新屋は、三、四十万両の身上なりということで、やっかみの入った「えた」身分の人々に対しての中傷が記されている。
当時、皮を扱っている「えた」が金持であるという感覚が生まれていたことがわかる。
平井清隆氏は前掲書の中で 言い伝えと断りながら次のような話を記している。「その当主が彦根藩に大名貸しをし、その返済の反故を条件として自分たちを町人身分に引き上げてくれるよう頼み、そのことを反対に咎められて一人は遠島、もう一人は財産没収となった。」
その家が彦根藩に大名貸しをしていたというのは事実であり、他の大商人と同じく相当の貸し倒れがあるのもうなずける話である。
ただ、ここで問題にしたいのは前述のように近江商人の場合は武士身分に引き上げられるということが多々みられることに比して「えた」身分のものが普通の人々「平人」になることが如何に困難なことであったかということである。
五個荘商人と被差別部落との接点
さて、このように経済力はあるが「人外」という扱いを受けた人々と、近江商人 とくに五個荘商人の接点があったかということだが、残念ながらそれを判断する資料が殆ど無いのが現状である。A地区の歴史的背景を研究されている滋賀県同和問題研究所の谷口勝巳氏によると、前述の〇〇家にも詳細な商売上の取引記録は発見されていないとのことである。また、近江商人の側にはその取扱商品について記録はあるのだが革製品に関しての記録は見出せない。
五個荘町の近江商人博物館の説明によると、その理由の一つは、近江商人が初期はともかく後期になると、他国商売をするいわゆる卸売りの商人であり、地場の商人とはあまり取引が無かったのではないかということ、もう一つは革製品も日常雑貨として処理されていたので特定できないのではないかということであった。
ただ、この説明には疑問が残る。まず、合理的な商売をする近江商人なら近隣に大変利益の上がる革製品のような品物があればそれを自分の商売に取り入れようとするのは当然ではないかということ。身分という経済行為とは関係の無いことで商機を逸するのは「損」ということである。
そして、前述のように革というのが、身分制との関連で、当時の人々にとって特別な意味を持っていたということで、他の商品と混在させるような取り扱いはしなかったのではないかと推察されるということである。
ここは、やはり平井清隆氏が『近江部落風土記』で述べているような見解が、妥当なのではないかと思われるので次にそれを引用させていただく。
「近江商人が皮革製品を扱った事は、殆ど記録に残されていません。同時に、皮革製品がどこで作られたかということも明らかにしていません。皮革製品の代表的なものである、甲冑類ですら、その生産者、生産地が明確にされている例は、極めて少ないのであります。皮革原材が「エタ」村で生産されていることが明確であるにもかかわらず、皮革製品については勿論、その販売取り扱いをしたことまで、不問に付してしまっているということで、部落差別のきびしかったことがよく理解されます。」
つまり、取引はあったが意図的に記録を残さなかった可能性があるということである。これは、取引による利益と、身分制による不利益を勘案すると、ある意味でバランスのとれたやり方といえるかもしれない。
平井氏は煙草入れや、小物入れの皮革製品がA地区で生産され、近江商人によって全国に販売されたことを記しているが、以上みてきたように、それを裏付けるような資料は残っていない。
このように残念ながら経済合理主義による身分制の崩壊への糸口というのを近江商人の活動の中に直接に見つけ出すことは出来なかった。しかし近年の研究によって 経済活動が、被差別民をも含む身分制を超える事例がいくつか報告されている。
例えば大坂地域においては、雪駄の生産において、かわた村で裏皮作りと表作りを行い、仕上げや鼻緒作りは、かわた村だけではなく大坂市中の鼻緒職人、雪駄職人も行うという関係にあったし、大坂市中では主として町人身分の商人が雪駄を販売していた。このような日常的な身分間の交流の中で、大坂の町人身分のものが「えた」村へ転住したという例が報告されている。雪駄関連の商売のためであったということである。(斎藤洋一『身分差別社会の真実』128.129)
また江戸においても弾左衛門(江戸における皮革を扱った賎民身分の人たち)の皮屋と江戸市中の関連業者の商いは日常的に行われていたし、福岡藩では、博多商人の柴藤増次が1811年(文化八年)それまで皮革業に関わっていなかったにもかかわらず、その生み出す利益を求めて革座の経営権を握った。まさに皮革に対する差別観念よりも、利益の追求が優先されたことになる。(中尾健次『江戸時代の差別観念』より)
このような動きこそ合理的思考の重要な作用によるものといえるのではないだろうか。中尾氏は記している。「外聞の悪さより損得勘定が優先されれば、差別観念は、かなりの程度払拭されるはずである。これこそ“資本主義の精神”ということになる。」(同書26)
今まで見てきたように穢れ意識の払拭という重い、厄介な問題を避けてとおることは出来ないわけだが、そのための方途として、経済合理性が妨げられないような環境作りと、そして経済合理性によって結びついた人的交流ということが重要であるという点が痛感される。
浄土真宗と商人倫理
さて、前述したような合理的経済理念を生み出した近江商人に対して、その精神性が宗教的要因によって育まれたとする指摘がなされている。
浄土真宗と近江商人の関連についても多くが語られているが、社会学者 内藤莞爾氏は、近江の国、特に多数の近江商人を輩出した五個荘を中心とする神崎郡に真
宗寺院が多いことを指摘した上で「宗教が人間形成に組織的な影響を及ぼすとすれば、それは寺檀関係あるいは教団を通じてであろう。」と述べ、「我々は、近江商人のいわゆる経済倫理の一端が、浄土真宗の教義によって基礎付けられたと考える。」(「日本の宗教と社会」1978年 10-11)と、真宗の教義が近江商人の経済合理性を支える商業倫理に及ぼした影響を指摘している。(氏の主張は、浄土真宗が近江商人を生んだというような直接的なことを言っているのではない。あくまで影響の一端が見られるということである。)
内藤氏は浄土真宗が近江商人にどのように宗教的影響を与えたとみているのか紹介したい。前掲書中の『態度の合理化と正定聚の立場』という項においてウェーバーの学説を引いた上で次のように述べている。
「ところで呪術・祈祷の禁止、いわゆる「魔術からの解放」は、ウェーバーによると二つの意味を持っている。ひとつは免罪符の廃止に示されるように、個々では仲
介者を廃して、個人と絶対者が直接、相対する。特に現世的な利益の介入を許さない。だからその点で、純粋な宗教的情熱をはかる事が出来る。
第二は、メソジストという言葉に象徴されるように、行為の『合理化』が生み出される。“magico-mysterious”な存在は、頼りとならない。そうなれば、おのれ自身を正すより他はない。『方法的な』処世の態度である。」
このように彼は浄土真宗の絶対他力という教義的支柱から来る迷信俗信の否定が門徒である近江商人に与えた影響を指摘している。具体的には
「では絶対他力という立場から引き出される、信者側からの『心理学』は、どういうことになるであろうか。これは、二つの点に分けてみることが出来る。
第一は、自主的な『個人』への勧めである。往生については、弥陀以外に頼むものはない。とすれば、信仰の世界では、彼は孤立の立場に置かれる。ところでこの孤立は、やがて社会的な孤立へと導かれる。人は頼りにならないという態度である。—略— 社会的孤立は、ニヒリズムや不満・攻撃の方向をたどることもありうる。しかしここではかえって、おのれの運命はおのれで開拓するという態度とつながってくる。『一人転び、一人起き』となって、いわゆる『独立不羈』の精神として昇華してくるわけである。
ところで第二は、誤解がなければ、『精神的貴族』の態度だとすることができる。浄土往生は、もちろん末期になって成就する。けれどもその決定は、一途に弥陀を信じまいらすことで、生前においてなされる。このように往生決定のものが、『正定聚』である。—略— こうした正定聚は、来世だけでなく、現世でも、弥陀の恵みを受けることになる。少なくとも、現世生活に対して強い心理的な支柱が、この立場によって与えられる。」と、浄土真宗教義からくる迷信俗信からの解放を近江商人の自立的、合理的経済意識の要因として捉えている。これが歴史的事実として本当なら真宗が合理主義を導くことによって日本の社会近代化への大きな精神的背景になったとも言いうるだろう。はたしてその通りであろうか。
確かに、蓮如上人の『猟、漁の御文』等を挙げて如何に真宗教義が江戸期の商人の精神的支えになったかを主張する論は多くみられる。
後藤文利氏は『真宗と日本資本主義』のなかで蓮如上人によって1497年石山本願寺が創設されて以降、大阪商人は真宗の信仰を守り抜くことによって、経済の自由と繁栄を確立したと述べ、真宗の悪人正機説にその精神的支柱を求めたとして次のように説明する。
「江戸時代、士農工商とランク付けされた社会にあって、商人階級が阿弥陀如来に帰依するのは当然の理であった。百で買ったものを百二十で売る。それは罪の意識なくしてはできないものであった。商人は他人の財布の泥棒に等しいものである。けれども、そうしなければ生きていけない商人の宿業を阿弥陀如来は理解し、そこに慈悲をかけようとするのである。」
また、現代の伊藤忠商事、丸紅の基礎を築いた初代伊藤忠兵衛は、代表的な近江商人で今の犬上郡豊郷町の出身であり熱心な門徒であったことが知られているが、それについて2代忠兵衛は『在りし日の父』のなかで次のように記している。(植松忠博『信仰とビジネス』による)
「明治も中期前は、ともすると商人は賤しい者、社会を害毒化するもののように考えられておった時代に、事業なるものがただ一片の金儲けの種でなくて、社会に必要なる存在であり、
高い職業であるとまで高調したところに近代的な匂いがする。彼の直観力の然らしめたところかもしれない。猟、漁を菩薩の道だとの御訓を行持したとも言いうる。」
社会的な身分の尊卑が往生(救済)には関係がないという真宗の教えが、当時の虐げられていた又は虐げられているという意識をもっていた人々に希望を与えたということは、程度の差はあれ事実であろう。しかし当時の近江商人たちが本当に自分たちを卑しいと自覚していたかどうかについては疑問が残る。
小倉栄一郎氏は同文において前述の近江商人中井家について触れた部分で「中井家は代々寄進や社会事業を大々的に行った。これがかの賎民的贖罪観とは無縁であることに注目したい。—略— 江戸時代の大商人は、 営利に関して倫理的背反を感じていないことは前述したところである。金持になるという蓄財はすでに名誉であり出世であった。そして寄進は、彼らがその本分とするところをもってなしうる社会的貢献の一つの型であり、その故に、誇りを持ってその蓄財を割いたのである。」と述べている。
商人という身分
商人という身分の位置付けについても従来言われてきた『士農工商』という序列表現自体が江戸時代にはなく、明治政権が作り出したのではないかという考えが提起されている。(斎藤
洋一『身分差別社会の真実』) 斎藤氏は商人の当時としての社会的役割について同書の中で次のように述べている。
「こうして都市に集められた商工は、武士のために商品や工業製品を提供する役割を与えられたが、もう一つ、忘れてはならない重要な役割があった。それは、商人たちが農村と城下町、さらに領外の各地を結びつける働きをしていたことである。商人は日本各地から仕入れてきた様々な商品を農村部に提供し、逆に農村部で作られた商品を買い取ってきて、それを城下町のみならず日本各地に売りさばくという役割を果たしていた。つまり、商人は武士による農民支配を経済の面から手助けしていたのである。
実際、公式の場で商工の代表と農民の代表が座る場合の席次を見ると、商工の方が上席になっている。また、このことは、武士の職務上の席次にも反映されており、商工を支配する町奉行と農民を支配する郡奉行では、町奉行のほうが上席なのである。武士による農民支配の補助者という性格から考えて、身分的には『商』が『農』より上だと考えるべきなのである。」
このような指摘は近江商人についても大体において当てはまるように思われる。『五個荘町史』の次のような記述によれば、近江商人と領主との関係が互恵のものであることがわかる。「外村与左衛門家における、文化三年(一八〇六)の八代目から弘化二年(一八四五)の十代目にいたる、領主に対する献金と領主よりの拝領品などを見てみると(外村与左衛門家は五個荘出身の近江商人であるが、当時五個荘地域は、郡山藩領と彦根藩領とで構成され外村与左衛門家のある金堂村は郡山藩領に属した)、領主の下向、屋敷の類焼、御用金などの要請に献金で対応し、その一方で紋付・袴地・小袖・酒肴などの品物を始め、苗字帯刀、大庄屋格まで得ているのがわかる。」
近世後期になると財政難から大商人に借り入れを行った藩が多くあったことはよく知られているが、同じく五個荘商人の松居久左衛門家では、明治4年(千八百七十一)の時点での旧藩関係の未返済の借用証文が25通残っており、上州の高崎藩900両、小幡藩8553両、大垣藩3070両、上州の安中藩150両、彦根藩1万5393両の総計2万8066両もの貸付をしていたということが知れる。その見返りとして諸藩から禄高を得ていて、例えば、彦根藩から15人扶持、高崎藩から100石、上州の吉井藩から3人扶持、高遠半から100石の禄高という具合である。(『星久二百二十五年小史』より)
苗字帯刀を許され、禄高を得るということは形式上武士扱いということである。いかに士農工商というのをそのまま身分の序列と考えることが無理なことかというのがわかる。むしろ、これだけを考えると経済合理主義が封建制身分制度を打ち破り市民社会の実現に向かってもよさそうなものだが歴史はそうはならなかった。なぜか。
もちろんこれら商人の合理的経済運営も所詮、武士が作り上げた社会制度で許される範囲の中のことであり、武士のほうの都合が悪くなると商人からの借金を用捨金として勝手に献金として処理されたり、挙句は商家そのものを取り潰すというような経済的なルール無視を平気でするのだから社会変革など及びもつかないという理由もあるだろう。
しかし、プロテスタン ティズムが市民革命、産業革命を経て市民社会の成立へとつながっていったヨーロッパにおけるカルヴィニズムの果たした役割を考えるとき、日本において宗教
が社会変革という方向に対して殆ど無力というより反対に封建身分制を温存、維持する装置だったことの意味はもっと注目してよいのではないだろうか。
確かに、浄土真宗教義が 近江商人をはじめ多くの商人階級を勇気付け、その経済思想の確立に寄与したことはあるだろう。しかし経済発展の当然の帰結であるはずの合理主義、そして身分制という非合理なものを含む社会体制の変革へとなぜ進んでいかなかったか。これは未だに身分制の忌まわしい残滓を同和問題という形で引きずる我々にとっ
て非常に大きな意味を持つ問題ではないだろうか。
経済倫理における浄土真宗教義の役割
まず、本当に商人階級の経済倫理を成り立たせていたものが主として浄土真宗の教義によって説明されるものかという問題がある。近江商人だけに限ってみても芹川博通氏は『宗教的経済倫理の研究』のなかで前述の内藤莞爾氏の浄土真宗寺院と近江商人の関係そのものに疑義を呈し、「圧倒的に浄土真宗寺院の多い北東部の犬上郡や坂田郡には、いわゆる近江商人は決して多く発生していないことも考慮する必要があろう。」としたうえで、「仏教と近江商人の連関を考察するときには、仏教の中心は浄土教(真宗と浄土宗)であり、さらに加えるならば、禅宗と天台宗諸派で十分ではないだろうか。」と述べている。
確かに近江商人によって記された現存の家訓等の文献を見ると浄土真宗というより浄土教的という思考が見て取れることが多い。来世を頼むというような表現である。また忠義、孝行等の文言も多く儒教の影響も大きいことがわかる。前述の小倉栄一郎氏は近江商人に最も影響力のあったのは儒教だと主張している。
近江の国においては確かに浄土真宗が仏教寺院の過半数を占めているが残りは多くの宗派に分かれているうえ、狭い地域の中に宗派の異なる寺院が多数混在している状態が普通である。
例えば現在の五個荘地域で見ると全39ヶ寺のうち真宗19、浄土宗8、臨済宗5、天台宗4、黄檗宗3となっている。この数字を考えると、確かに浄土真宗の勢力が強いといえるだろうが、日本の農村社会の緊密な人的交流を考えると、少なくともある時期に一つの宗派がその教義の影響を強く地域の人々に及ぼしていったということは言えないのではないだろうか。むしろ当時の封建制度を支える檀家制度のもと、宗派の教義的独自性よりもどの仏教宗派であろうが、少なくとも門徒、檀家の側にとって大きな差はなく『宗旨人別帳』による戸籍管理や、過去帳による家制度への宗教的裏付けに具体的な家と寺との関係の社会的意味が置かれていたのではないだろうか。
真宗の布教は合理的思考を促したか
ここでもう一つ忘れてはならないのが、実際に真宗の教義がどのように人々に説かれていたかということである。内藤莞爾氏の言うように絶対他力の信心が自主的な『個人』を促すという方向で布教がなされていたのだろうか。
残念ながらここでも疑問をもたざるを得ない。
内藤氏自身、前述の『宗教と経済倫理』のなかで結論として、近江商人が最終的に真の資本主義を確立し得なかった理由の一つとして真宗教団の側の問題を挙げているのだが、そのなかで明和8年(1771)に著された真宗僧侶、沙彌元静の『念仏行者十用心』からの引用として真宗門徒の心得として次の文を示している。
「外に王法を専ら守り、仁義礼智信の道を忘れず、内心に深く本願を信じ、この世の良し悪しきは、過去よりの因縁に任せて、士農工商各々が家職を第一に心がけるを以って、浄土のよき同行とは申也。」
ここには真俗二諦の問題を含め現在宗門で問題となっている差別を放置してきたとされる教義上の問題が見事に凝縮されているようである。士農工商という身分を当然のこととして説き、差別を放置してきたというよりも、封建的身分制度を積極的に思想上支援してきたといわれても仕方があるまい。そこには合理的思考に基づいて社会を変革して行こうなどという視点は微塵もない。
『研修資料 御同朋の社会をめざして』「真俗二諦」において平田厚志氏が指摘されているように、すでに覚如上人(1270~1351)から始まる真宗教団の生き残りのための体制順応の努力は、その時々の社会権力の要請に自ら合わせる形での「真俗二諦」をつくりあげ、それを教義という宗教的色づけを施して教団統制の道具としてきたといえるだろう。
平田氏が言うように、特にわが国で始めての宗教勢力と権力との全面戦争といえる一向一揆から石山戦争にいたる戦いが1580年事実上の本願寺の敗北に終わって以降、東西分裂を余儀なくされた本願寺教団が近世幕藩体制下に生き延びる方途は、教団体制の幕藩制的再編を模索するしかなかったということであろう。
しかし、教団は幕藩体制の中で場所を確保し生き延びることが出来ても、非合理な封建身分制度の弊害を身に受けるしかなかった各階層身分の(そして何より身分外といわれる被差別民の)門徒達はどうなるのだろうか。
ここに、ファシズムの下にある国民と同じ問題、「国は誰のためにあるのか、国は国民のためにあるのではないのか」、という問いと同質の問題がある。教団は何のためにあるのか。教
団は門徒の宗教的救済のためにあるのではないのか。教団と教団幹部が生き延びられたらそれでいいのか。
多くの経済学者や社会学者が指摘しているように、親鸞聖人の示した絶対他力の思想は、今生においては一切の非合理性を廃し、阿弥陀仏と私との個の関係を基礎にした、社会の中における平等性を志向する社会変革の大きな力を持っているはずであった。
それを自分たちが生き延びるために時々に歪曲して、その自分たちの都合のよいように歪曲したものを権力、権威の力で身分制の非合理に苦しむ門徒に押し付けていくというのは、宗祖に対する冒涜といえないだろうか。
ましてや自分たちが宗祖の正統性を継ぐものという論理の上にこれを行ってきたというのは本当にタチが悪いとしか言いようがない。
明治政府が「解放令」によって正式に封建身分制度を廃したのが明治4年である。それ以前に身分制度を廃するような働きかけ、運動を真宗教団がしたという記録を残念ながら見つけられなかった。
そんなことは誰も考えなかったというのはおかしい。
江戸初期の禅僧 鈴木正三は、非人という身分の存在について批判し、その救済を主張しているし、明治新政府の中に理由はともかく非合理な身分制度を無くしたほうがよいという者がいて解放令と言う法令が発布されたのであろう。それが、宗祖が迷信俗信の類を厳に批判した、その宗教教団から身分制への疑義の声が一度もあがらなかったのは恥辱である。
報恩ということについて
「真俗二諦」の具体的な門徒への提示の仕方で特に封建身分制度の存続を助けてきたと思われるのは「報恩」ということである。
前掲の『研修資料 御同朋の社会をめざして』「真俗二諦」では1648~51年に、諸国諸坊主中・惣門徒中に宛てた本願寺門主 良如の「消息」が取り上げられている。
その末尾に、「念仏の行者の敬い慎むべき法」として、『五箇条の制誡』が示され、その第3には仁義礼智信という徳川幕府が勧めた儒教道徳を守るべきこと、そして第4には父母、三宝、国主、衆生への「四恩」を忘れるなかれとあるのが紹介されている。
さらに平田氏は、「良如によって学寮初代能化に任ぜられた西吟が1655年に著した『客照問答集』のなかで彼は良如の『五箇条の制誡』の中でも「国主の恩」に力点を置き「この定令を立てる義は、先ずその国に居ては国王の恩深き故あり」と述べて幕藩領主の支配を「国主の恩」という論理において積極的に肯定している。」と記されているし、1823年に新制の勧学職についた性海にいたっては明らかに仏法より王法を上位に位置付け、「諸仏といえども、此界へ出現し給うときはみな国恩を受け給う。」と主張したというのだから、今の感覚で言えば開いた口がふさがらない宗教の放棄というところである。
そこまで、封建制の締め付けが厳しかったという見方も出来るだろうが、1823年といえば安藤昌益(1703~1762)が『自然真営道』等の著述によって、社会悪の根源は働く民衆を搾取する支配階級にあると述べ、山片蟠桃(1748~1821)は『夢の代』(1820年)によって地動説の立場から「神代」の物語の非科学性を指摘してから後である。
封建思想から抜け出す思想的土壌はすでに民衆の中に存在していたと見るべきであろう。そう考えると、いかに教団が権力の側しか向いておらず、それによっての自己保身しか考えてなかったかを証しているとしか言い様がないのではないか。真宗僧侶として今更ながら恥ずかしい気持ちになるのは私だけだろうか。
これは遠い過ぎ去った過去の話ではない。
真宗では今でも「報恩」ということを強調する。
前述の『四恩』というのは善導の『法事讃 下巻』にみえるものであり、良如が作り上げたものではもとよりなく、多くの真宗関係書物の中で取り上げられている。
善導は唐代の僧であり、法事讃には「願わくは、この功徳が大唐皇帝をうるおして福の基とこしえに固く(聖典意訳 七祖聖教 中344)」とあるように明らかに鎮護国家の思想を持っていたことが知れる。
親鸞聖人の教えを慕う浄土真宗の門徒が、親鸞聖人が否定した鎮護国家の思想を取り入れる必要は全く無いように思われる。
報恩ということが如何に身分上位のものが下位のものを精神的に従属させる手段として用いられてきたか。
前述の内藤莞爾は『日本の宗教と社会』の中で「とりわけ報恩の立場は当然のことながら、仕える身分のものにこれが求められた。」として、日渓の『古数奇屋法語(真宗全書 62巻)』を挙げている。
「ただ主君へ、ご恩報謝のためと心得て、己が分際を尽くすべきにて候」
現在に於いてもこのような類の布教が我が真宗教団でなされていないといえるだろうか。
例えば、多くの布教使が「親の恩」ということを強調する。ところが老父母を慈しむということならともかく、権力を持った側(それが親だとすれば)
が言う恩というのは、やはり他人を従属させるための手段となってしまう。
今、問題になっているのは幼児虐待をこのような布教使はどう考えるのだろう。殴り殺されても親の恩を感じろというのだろうか。子供を一人の人間として、個人として考えないで、自分より下位の子供という身分でしか考えないから、親の側の恩ということしか言われない。
親子という相互の人間関係において、一方だけの恩というのことを言うのはおかしい。
このことは、雇い主と労働者の関係において恩を受けているというのがおかしいのと同列である。それこそ恩着せがましいという反発を受けるだけである。(実際こういう形で若者の教団離れが起きているとしたら悲しいことである)
誰がどういう立場で恩を口にするのか、もっと敏感になった方がいい。
我々にとって、宗教人として、真の「恩」というのは「仏恩」しかないのではないだろうか。それが絶対他力の絶対たる所以ではないのか。
それを国王でも天皇でも親でも、一旦、人間関係にもってきた時、身分を固定化する道具に成り果ててしまった。これこそ親鸞聖人に対する裏切りではないのか。
最後に
最初に述べたように、浄土真宗は伝統仏教団の中で、日本における真に合理主義的な思考に基づいた社会を築ける教団のはずであった。
近年、指摘されているように、一向一揆という広汎な社会改革を目指す新しい世直し運動において、民衆の力を組織することができたのは日本史の中でも画期的な意味があると考える。(『日本の聖と賎 中世編』)それがそれ以降の権力の中にずっと取り入れられ続け、太平洋戦争が終わって未だに方向性を打ち出せないでいるように思える。
未だに、我々の社会は身分制の影を引きずっている。
いわゆる『身分的感覚』つまり「役職の上位者は、全てにおいて下位者に優越する」という意識を持っているものが、まだまだ年配の方を中心に特に多い。
合理的思考とは相容れない感覚である。部長であろうが平社員の知らないこと出来ないことはたくさんあるのに、それを認めないために相手の人間性を否定し、また自分自身も平社員から得られるはずの多くのものを逃している。損をしている。男女平等というと身構える人がいるが、能力のある女性を生かせないのは社会にとって誰にとっても損失なのである。残念ながら我が宗門にもこういう非合理な身分制の影を引きずっているタイプの方が大勢いる。
『信心の社会性』というとが課題とされている。
議論を聞いていると、信心の社会性というのは間違いであって、信心者の社会性であるという。それがどうしたというのであろうか。
そんな言葉の遊びは、江戸時代の他に社会の中でやることが無かった時の宗学で教わったと思っていたら、そうではないようである。
現在は江戸時代や軍部が活躍した時代のように、擦り寄っていくべき権力は無いのだ。
念仏者が社会の中でどう生きていったらよいか、などと受身の生き残り方ばかりを言っていたら、悪夢の真俗二諦の繰り返しになってしまう。
未だに、非合理的な思考から覚められないこの社会を、絶対他力の合理性で変えていく。社会を変えていく力を持っているのが浄土真宗の思想だという自信を取り戻せるかどうかが、真の教団再生が出来るかどうかの鍵であると確信する。
滋賀教区 寺前逸雄