浄土真宗における一向一揆の意味

2018年11月28日 カテゴリー:住職のおはなし

日本と北米における社会での宗教の役割の違い
かつて、開教使としてカナダにおいて寺院活動をしていたとき、痛切に感じたことがある。
それは、北米の人々の宗教に対する期待感の強さということである。社会が、なにかあると宗教に対して(特にキリスト教に対して)指針を求めるということが当然の事として行われる。社会現象に対して宗教者がコメントするということは新聞紙上ではあたりまえのことであるし、大学のキャンパスでは(宗教系の大学でなくても)各宗派の僧侶、牧師が学生の相談相手としての役割を負っている。病院に行けば、入院患者の宗派別のリストが必ずおいてあり、それぞれの宗派の、牧師、僧侶は自分の宗派の入院患者を、面識がなくても気軽に訪ね、宗教的な対話の場を持つことが期待されている。
もちろん、以前に比べて宗教色は薄まっているという話はあちこちで聞かれたし、教会に行く人々の数も減っているということを牧師から聞かされもした。し
かしながら、いわゆる社会活動をするボランティア団体の多くは宗教団体の運営によるものである事を見ても、社会生活で宗教団体が期待され、また宗教団体が
積極的に社会の世論形成において果たす位置、役割は、無意識的なものも含めて非常に大きなものがあるといえる。
一例として前回のアメリカ大統領選挙において宗教者の団体が果たした役割に関する記事を掲載させていただく

<米大統領選>他候補を中傷せず 宗教団体の要請に候補者が同意(見出し)

  【ワシントン15日中井良則】米国のさまざまな宗教団体が作る組織「宗派間同盟」は15日、同組織が作った「他の候補を中傷せず行動に責任を持つ」という
選挙運動の倫理綱領に、大統領選の主な立候補者が合意した、と発表した。政治家に対する不信が国民に広がっている現状を心配する宗教指導者が、きれいな選
挙推進に乗り出した。

 「礼儀正しい候補者の枠組み」と題した綱領は「他の候補をごまかしやいつわりで批判しない」「個人攻撃や品格を落とすような表現を使わない」「候補者の見解を有権者が理解するよう発言の水準を高める」など14項目の原則を示した。

 立候補者にこの綱領を支持するか聞いたところ、同日までに民主党のゴア副大統領、ブラドリー前上院議員、共和党のブッシュ・テキサス州知事、マケイン上院議員、ハッチ上院議員の5人から本人あるいは選対責任者の手紙で同意の返事があった。

 公表された手紙によると、ブッシュ知事は「選挙運動を丁寧に礼儀正しく行う責任が私にはある」と答え、ゴア選対の責任者は「副大統領は選対幹部からボランティアに至るまでこの原則を守るよう要請した」と述べた。

 ―――――――――略―――――――――

 宗派間同盟のジェーン・ディクソン会長(キリスト教の監督教会聖職者)は「信仰を持つ人々は民主政治に関わるべきだ。宗教指導者や信仰者は候補者が、礼儀ある選挙運動を行う約束を守るか監視してほしい」と話している。

[毎日新聞1999年12月16日]





日本の宗教文化について

翻って、日本における状況はどうだろう。人の命の尊厳に関わるような事件、出来事、社会事象においてすら、宗教者がメディアから意見を求められることは稀であり、宗教儀式、歴史的建築物、美術品等に関すること以外で僧侶が登場することは殆どない。
ヤスクニ問題や、国立の戦没者追悼施設というようなまさに宗教に関することとしかいいようのない事象についてさえ、それが、政治社会の範疇に入ると認識
されている場合は、宗教者に対して意見も求めてこない社会というのは、カナダも含む北米の社会から見ると、やはり異様に映ろう。

さらに、メディアや、一般社会の対応だけでなく、宗教者自身も上記のような日本社会の状 況を疑問に思わないところがある。とくに伝統仏教の僧侶が、社会に対して積極的に発言していくことをよしとせず、社会に背を向けた隠遁者のような生活を、
宗教者としての理想とするような風潮は根強いといわざるを得ない。

我が教団で近年議論が戦わされている、「信心の社会性」ということについても、いまだに「信心」の神聖化によって、俗世間からその神性を護りたいと言わんばかりの議論がなされることがある(「信心は社会事象に左右されるものではない」という類の議論)。
それがどれほど個人と、絶対者との関係で決定されるべき、純宗教的事柄であったとしても、その個人が社会に生存している個人であるかぎり、その個人の社
会性は言うに及ばず、その宗教的事象の社会性、社会に与える影響を無視することはできないはずである。また反対に、どんなに遁世者ぶっていても、社会から
の影響を受けない思想などあるはずもないし、宗教が組織、仕組み、として社会に存在しているかぎり、社会との作用、反作用の連続の中で(まさに諸行無常の言葉どおり)存在していくより他はないわけで、それを否定することは宗教者の傲慢といわれてもしかたのないことであろう。
宗教者がその宗教の社会的影響を否定するなどということは欧米社会ではとうてい考えられないことであり、大変な非難の的になるであろうし、その宗教の社会における自殺行為であろう。

日本人はよく、議論が下手で、波風を立てることを好まないといわれる。しかし、本来、宗 教というものは現実生活に立つ波風に対処する術を与えてくれるものであり、そういう意味であらかじめ波風を避けるのではなく、積極的に波風に関わっていく
のが宗教家の役割であろう、少なくとも欧米社会ではそう認識されているところがある。そのため、キリスト教文化の世界、イスラム教文化の世界ともに、聖職
者が社会の現実の動きに対して警鐘を鳴らすし、そのことを社会の側も当然の事として受け入れてきた。では、このような宗教文化がなぜわが国に育たなかった
のであろうか。



はじめからそのような要素がなかったというのは、あたらないであろう。親鸞はじめ、鎌倉仏教の祖師たちはいずれも社会変革の大きな力を 持ちうる思想の体系を我々に残してくれた。やはり、最終的に幕藩体制の宗教統制によって宗教本来の社会変革のダイナミズムが失われたことが未だに大きな影
響をあたえていると考えるのが自然ではなかろうか。

日本人にとっての宗教の意味を研究してきた阿満利麿氏は著書『日本人はなぜ無宗教なのか』のなかで、近世の仏教のおかれた状況について次のように述べている、



  宗教は、とくに「創唱宗 教」は日常生活の矛盾、不条理から生まれているのであり、日常生活の単純な肯定を目的とはしていない。宗教には、とくに「創唱宗教」には、日常生活と鋭い
緊張関係を持つ面がある。その緊張関係が見失われるとすれば、それは何度も述べているように、宗教心の後退というしかないのではないか。近世の仏教の大部
分は、この意味でも、日常主義の範囲内にとどまったというのが実情ではなかろうか。



確かに阿満氏の言うように日常主義の範囲にとどまってきた仏教は、幕藩体制をサポートす るシステムの中に組み込まれ、行政の戸籍管理と葬祭儀礼を忠実にこなすことによって命脈を保ってきたのであって、社会の仕組みを絶対のものとし、その中で
いかに大過なくすごすべきかに腐心する事を日常主義というならば、まさにそれは日常主義であり、社会の矛盾に対して積極的に発言していくなどということか
らは程遠く、まさに狭い意味での王法為本の状況であった。

 この時期(近世)の本願寺教団における、社会の仕組みに対する考え方を、池田行信氏は次のように述べている、



 換言すればこのような体制内的仏法理解は、「まことに王法の威徳によりて、国治り民安くして仏法さかんにひろまるが故に、もしよく仏法を信じ、善根をも修せん人は、但仏恩を報ずるのみにあらず、又国恩をも報ずることはりに相かなふべし」(法如・宝暦10年)という仏法理解に起因するものと窺がえよう。

 ここに徳川幕藩体制下において語られる法義の「法」とは、出世間の法ならぬ、歴史的な王法・国法に根拠した、宗教的法というよりも、体制的法・世俗的法といったきわめて没世間的なる法であると知られる。いうならばそれは、王法の支配の下の仏法であったのである。

――67『真宗教団の思想と行動』――



池田氏の言う教団の体制内的仏法理解は近代になっても引き継がれることとなる。



――― 略―――しかるに幕末より明治にかけて、いわゆる時代権力としての「王法」の内容が「徳川」から「朝廷」へと移りゆくにしたがって、徳川幕藩体制下にあっ
ては王法を徳川とみたてて、信決定の上は徳川の法を守るように門徒を教諭していたが、その王法の内容が朝廷に移りゆく中で、このたびは信決定の上は朝廷の
法を守るようにと門徒を教諭するのである。―――中略―――右の広如の「御遺訓御書」より知られるように、王法の内容が朝廷となった社会生活上における念
仏者の行儀は、「現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ」ることであり、「来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬかる」ことであると明かされ
ている。

――70、71『真宗教団の思想と行動』――



そして、現在においても、前述のような社会状況を考えると、残念ながら、体制内的、日常主義的仏法理解の枠組みに、未だに我々教団人も、日本の社会も囚われ続けていると言わざるをえない。





一向一揆に対する評価

そこで、ここでは、そうではなかった可能性の歴史を振り返る試みをしてみたいと思う。浄土真宗という宗教が体制内的でも、日常主義的でもなかった可能性のある時代。それを一向一揆の起きた時代に見ていこうとすることにあまり異論はないのではないだろうか。



一向一揆に対する評価、見解は未だ定まっているとは言い難い。歴史学界においても土一揆や国一揆の一種であるとする説、反封建闘争や宗教戦争と捉える説等様々である。

また、教団内においても今まで正面から一向一揆について取り上げ、議論する風潮そのもの がなかったのではないか。先年、教団において蓮如上人の五百回遠忌法要が一年間にわたって華々しく修業されたことは記憶に新しい。その折にも積極的に一向
一揆が取り上げられたことはなかったし、教団の出した殆どの出版物も、蓮如の教学に関することや、本願寺教団の歩んだ苦難の歴史という視点からのもので
あって、一向一揆の中で当時の門徒がいかに教義を自分のものとして生きようとしたかという視点で書かれたものは殆どなかったように思う。ましてや、一向一
揆の顕彰碑や追悼法要などの話が議論されたことを聞いたことがない。布教においても、理想の篤信家として江戸幕藩体制下に生きた妙好人が好んで門信徒のあ
るべき姿として取り上げられてきたことと比べて、身命を賭して権力に戦いを挑み、社会変革を目指したとされる一向一揆の門信徒の人々が、題材として扱われ
ることは稀のように思われる。

他派のことで恐縮だが、大谷大学文学部教授で、金沢在住の寺院住職でもある大桑斉氏が、長享の大一揆(一向一揆勢力が守護の富樫正親を高尾城で破り真宗門徒の加賀支配を確立することになった一揆)の500年を記念して市民シンポジウムを企画した際に、教区の後援を依頼されたところ「教学のことではないから」と、断られたと、『一向一揆という物語』に著されているのが印象的である。
あの、かつて 浄土真宗の宗教王国「百姓の持ちたる国」を生んだ加賀で、現在本願寺派と比べて圧倒的な優勢を保っているように見える大谷派にして、この
状態であるならば本願寺派はさもありなんと、妙な納得を覚えた次第である。(大谷派の名誉のために言っておくと、その後同派の金沢別院が蓮如証人500回大遠忌法要を機に「おやまブックレット」という教化冊子を発行し、その一部がこの大桑氏による『一向一揆という物語』という、全篇から宗教的信念の伝わってくる一向一揆の書となったのである。)

しかし、こうした一向一揆に対する無関心や無視の風潮、これは、考えてみれば在家主義を 標榜する宗教組織として奇妙なことである。なぜなら、門主一族を中心とした本願寺教団にとって、一向一揆が、本願寺を権力と対峙する緊張関係に陥れるとい
う危険な行為であれ、組織の統制が効かない一部の暴走行為と非難するのであれ(これは間違いであることは後に述べるが)、 また、当時の戦乱の社会状況を考えると戦死者が出るのはいたし方がないというのを考慮に入れても、実際に浄土真宗という宗教的理想の元に人々が集まり、政
治的宗教的組織をつくり、その一部は封建領主に代わって国を治めるという社会変革をやり遂げ、しかし最後には徹底的に殲滅させられた、という歴史的事実は
厳然としてあるわけである。

ましてや、一向一揆のクライマックスである石山合戦は、本山死守の闘いであり、そこで命を落とした門徒達はキリスト教の言葉で言えばまさに殉教者そのものである。

宗教的理想を目指して命を落とした、数万とも数十万ともいわれる信者の事が語り継がれず に、例えば、吉崎御坊の火事のときに身を挺して飛び込んで、命と引き換えにお聖教を自分の腹に入れて守ったという、本向房了顕の「腹ごもりの聖教」の伝説
などが、忠義忠節をあらわす逸話として好んで取り上げられてきたというのも非常に偏ったことではないだろうか。

私は、この教団内における一向一揆の消極的な扱われ方自体が、封建体制化で育まれてきた 体制追従的、日常主義的仏法理解から教団が抜けきれていない結果であるような気がしてならない。なぜなら、一向一揆は基本的に自治的村落としての惣村がそ
の自治を拡大しようとする運動であるといえるが、それは権力の側からすれば反逆、謀反に他ならないことを考えると、それを顕彰すること自体が権力、体制と
いうものに不服従と見られかねない危険をずっとはらんできたから、一向一揆を称賛することを強制的に又自主的に抑制する雰囲気が醸成されてきたと考えられ
るからである。

実際、「百姓の持ちたる国」として、100年の間一向一揆組織の支配が及んだ加賀の国 に、その後の幕藩体制下で成立した加賀藩において著された歴史書『越登賀三州志』において、一向一揆の敗退は、逆賊退治の視点で描かれているし、著者の富
田景周は、一向一揆をお上に逆らった仏教徒という意味で「釈賊」とよんでいる。また、お上に逆らったという視点は明治になって権力が交代しても影響力をも
ち続けたということは想像に難くない(『一向一揆という物語』大桑斉)。

幕藩体制における本願寺教団の統制下において一向一揆がどのように扱われたかについては直接的な資料の収集がかなわなかったが、門主自らが、「また国処においては、公儀の掟を守り、人間仁義の道にそむかざるやうに、相たしなみ申さるべき事、肝要に候。」(法如・宝暦10年)と、述べるのであるから、お上に逆らった仏教徒の組織である一向一揆に対しての、少なくとも公式の扱いがどのようなものであったかは想像ができよう。





一向一揆に関わった部落の身分貶下について

 一向一揆に関わった部落の門徒に対する身分貶下(身分を貶める)政策については、石尾芳久氏が『一向一揆と部落』の中で取り上げているのを参考にしてみたい。氏は主張している、



 天正八年、本願寺は、勅命講和(正親町天皇の命令による講和という格好をつけた屈服――権力への屈服という事実を隠蔽する――であるが、そのことは呪術的天皇制思想への宗教の屈服という宗教の思想的転向の画期となった)に よる信長への屈服という、無残な権力への屈従と転向を行った。指導者層の転向の後も、宗教と思想と自治の純粋性を守り抜こうとする門徒たちは多く、各地で
末端の門徒たちの抵抗運動が続けられた。天正十三年、和歌山太田城への秀吉の水攻めでは、一揆の指導者五十三人が自決したとフロイスは証言する。助命され
た門徒たちも、助命とひきかえに被差別民身分におとされていることは、大田退衆(退城衆)中あての顕如の手紙(天正十四年正月二十四日、武闘断念をよびかけたもの)が、寛永九年という早い時期に穢寺として富田本照寺下に編成された蓮浄寺に伝えられていること、そして蓮浄寺を中心とする部落が和歌山最大の被差別部落になっていることによって、これを証明することができるであろう(「被差別部落起源論・増補版」木鐸社)。 ここにこそ被差別部落形成の大きな原因があったのである。―――略―――こうして、寺院ごと被差別者へおとされた末端の信徒を自ら管理し、権力機構の一部
と成り果てた近世の宗教と、中世の宗教との間には、私は大きな断層があるとみる。被差別部落形成の原因については、宗教の「転向」とその背景の考察抜きに
は考えられないと信じるのである。(191~193)



 石山本願寺の防戦に努めた勢力の一部が、その宗教性からくる反権力性によって身分貶下されたと同様に、北陸の一向一揆の重要拠点、加賀においても一揆の壊滅後、真宗門徒を卑賤視する政策がとられたという。

天正九年に本格的な加賀 の経営にのり出した前田利家は天満宮を勧進して、その神威によって一向一揆の宗教運動に対決するということを考え出す。その天満宮の境内の取締りをした
人々を賎民化して「藤内」と呼んだのであるが、その人々に宗教一揆の隠密御用を命じたというのである。このような仕組みによって一向一揆にかかわった人々
を卑賤視する社会の目を醸成していったとしたら非常に巧妙かつ陰湿なやりかたである。また、加賀藩においては後に真宗門徒は「ねぶつもん」と呼ばれたが、
「ねぶつもん」は罵倒の一つの表現であったということである。(同書94,95)



 土一揆と同様に、自治 性をもつ集落である惣村が誕生し、貨幣経済が浸透した地域であった近畿、北陸、東海、中国の各地方を中心に当時、広範囲に一向一揆が起きたが、幕藩体制下
になってどのくらいの規模で一向一揆に参加した人々を身分貶下することが政策として行われたか、筆者の力量不足により調査できていない。しかしながら、封
建身分制や賎民政策が幕藩体制権力の維持の都合で作られたものであるという視点に立てば、広範囲にわたって、何らかの形で、社会変革の大きな力を持った一
向一揆に関わったと見られた集団が、身分的に不利な立場に落とされたであろうことは容易に想像がつく。

 これは、本願寺教団と いう宗教集団からすれば、かつて、自己の組織の世俗的権力の強大化、そして最後は防衛のために一向一揆を利用し、それが壊滅させられた後は、それらの一揆
に参加した人々の身分を貶める政策を受け入れ、積極的に自らの組織の最下層として、本末制度という枠組みによって幕藩体制の側の監視役をしてきたというこ
とになるのではないか。石井氏の批判にどう反論できるのか。

 幕藩体制を中心に、数百年間、被差別地域が存在してきた(しているというべきか)。 そして、その多くが本願寺教団の寺院を含む地域である。このこと自体の深刻な意味を、宗教的良心に照らして、どれほどの教団人が感じてきただろうか。同じ
宗教の中で、身分的に同じ人間とみなされない人たちがいるということを平然と受け入れてきた宗教とは何であろうか。世の中が世の中だから仕方がなかったと
いうのは通用しないだろう。最初に述べたように、世の中に警鐘を鳴らすことができることこそが宗教の役割なのだから。問題はそのことへの罪悪感を自身のこ
ととして感じてきた教団人がどれほどいただろうかということである。宗教というものの根源に関わる問題であろう。



 ここで、幕藩体制確立以降、いかに本願寺教団が、手のひらを返したかのように、権力に従順に末端組織を管理して、自己の組織の安堵を図ったかということの例証を一つだけしよう。



 徳川幕府は四代将軍家綱襲封の際より代々の将軍代替りごとに、東西両本願寺とその末寺に、そして東本願寺派では10代家治のときより門徒にも誓詞を提出させている(青木忠夫「将軍代替わりにおける真宗教団の誓詞について」)。——略——幕府は将軍代替誓詞を通して公儀(幕府)—本山—末寺—門徒の順序で仏法と王法に従属させ、巨大な宗教的エネルギーを収斂しようとしたものと考えられる。

将軍代替誓詞の文言は、ともに三か条よりなり、東西両派によって若干の違いはあるが、基本点は同一である。そこでは(イ)公儀を軽々しく考えないこと、(ロ)公儀に対し不義をしないこと、(ハ)御本寺の下知に従うこ と、の三点が誓詞の趣旨となっている。とくに第二条において公儀に不義を働くものが、坊主・知音・檀家・門徒であっても与せず、これを幕府に報告するとし
ている点が重要であろう。そしてこれらに違背すれば、「忽ち如来の本願に洩れ、別して祖師の冥罰を蒙り」、永く地獄に堕在するとしているのである。

記された誓詞の項目は、 形式上は世俗の事項であり、真宗の教義が直接書かれているわけではない。にもかかわらず違犯すれば、永く地獄に堕つべきものとしている。真宗の僧侶・門徒
が教義に直接違犯すれば地獄堕在が行われることもうなずけるが、形式上世俗の事項とみられることに違犯して、なぜ地獄堕在の止むをえぬことを本山に誓約し
なければならないのか。ここでは一見して王法・世俗の事項と思われることが、前にみたように世俗倫理を教義の中にとりこんでいるため、「掟(仁義)」と「教義(仏法)」との峻別が不可能であ り、両者の結合した「教義」となっているのである。そのため違犯者は教義の違犯者として処理され、本願寺法主がもつ救済の授与が拒否され、したがって地獄
堕在となるのである。将軍代替誓詞の文言は、別の面から近世真宗における教義が仏法と王法の統合の上に成立していることを示している。

(『宗教社会史の構想』有元正雄 17~19)



情けないことであるが、これが実態だったのであろう。真宗教団は真俗二諦の使い分けで社 会の変遷の中を生き延びてきたといわれる事があるが、幕藩体制においては、使い分けすらも出来ずに、宗義の根幹である如来の本願ですら、教団の立場を危う
くし、体制に逆らうものには適用されないということを本山が言っているのである。





教団為本と門主の専制君主化

 このような、対外的に組織を維持する努力の裏返しとして、宗門内に対しての宗主の専制君主化というものは、幕藩体制後に始まったことではなく、一向一揆を取り込んで、本願寺そのものが戦国大名化していく過程ですでに起こっていたことが知られる。

池田行信氏は、石山合戦の初期、本願寺が織田信長と戦闘状態に入った元亀元年(1570)に、顕如が近江の門徒に宛てた手紙(実質的には命令書)を取り上げて述べている。



 顕如は信長に対して不顧 身命にて戦う者でなければ門徒となさない、すなわち破門に処すというのである。それは一面においては仏法のために信長と戦えという、王法為本より仏法為本
への転換でもあるが、しかしそれは教法を優先してのものではなく、教団の維持存続を優先してのものであった。―――略―――仏法と王法という関係におい
て、教団レベルで語られる仏法為本に根拠した念仏者の行儀は、歴史的存在としての教団の歴史的発展に伴って、いわば教団為本に陥る危険性を常にもっている
ことに留意すべきである。―――略――― 一見して仏法為本の名の下に戦われたと思われる石山合戦も、必ずしも仏法為本という教学的営為に根拠して戦われ
たのではなく、「破門」などをちらつかせた、宗主の専制君主化という教団的営為の根拠しての戦いでもあった点を見落としてはならないであろう。(62~64『真宗教団の思想と行動』)



 上で述べられているこ とは非常に重要であり深刻なことである。宗教組織がその宗教の拠り処である救いを、組織の維持、拡張という世俗の欲求と結びつけたとき、その宗教組織の腐
敗、堕落が始まるのは洋の東西を問わない。宗教は信ずるもののためにあるのか、その宗教関係者を含む宗教組織そのものの為にあるのかというのは根源的な問
題であり、現在においても解決されていまい。

宗門内において今でも、一向一揆を消極的に、本願寺が不本意ながら巻き込まれてしまった 社会現象として片付けようとする人々がいる。そういう人々は歴史を正視する努力を放棄したと言う点で、被侵略地の状況を無視した第二次世界大戦の歴史観を
持ちつづける人々と通じるところがあるように思う。維持された教団組織の視点で見るか、「救い」という宗教の根源を取引に、闘いに駆り出された門徒の視点
で見るかということであろう。

 本願寺自体がいかに直 接、一向一揆にかかわり、それを利用して教団拡張を図ったかという資料については枚挙に暇がないが、そのための教団統制として、門主の専制君主化の裏面と
して、上記のような、破門をはじめとする教団の門徒処罰が実際に行われた事が知られるのである。ここでは重松明久氏の記述により、この点をもう少し詳しく
見てみたい、



本 願寺の門徒に対する処罰としては、まず勘気=破門に処することがある。坊主や門徒で、一たん破門されると、かまどの火が消えた場合、隣家から火種をもらう
ことも出来ない。破門された者と目をみあわせてさえ、無間地獄に落ちるといわれた。したがって破門された者は、今生では、人との交際もたたれ、結局餓死す
る以外はない。今生・後生ともに立ち行かないことになるといわれた(『本福寺跡書』)。宗教的世間的両面で、村八分になる。

処罰ではないが、門徒に対する統制の一方法として、後生御免というのがある。これも証如のころより,はじめられた。かつての大小一揆(加賀で起きた一向一揆の中での内紛・筆者 注)の対立のなごりとして、 天文六年、若松本泉寺を中心に、大一揆側に反撃した事件があった。このさい越前に追放された牢人ら約四十人に対し、天文二十年、後生はゆるすと告げた。但
し、帰国は認めないという。後生御免というのは、何かの罪により、一度破門された者が、門徒への復帰を許されるということになる。

さらに天文年間頃から、死刑に処することも行われた。—略― 天文七年三月、

本 願寺は七人を派遣し下間筑前頼秀を、さらに同八年七月には、下間備中頼盛も、堺において殺害させた。下間両兄弟が殺された時期は、今まで対立抗争していた
細川晴元と本願寺が妥協した時点にあたっていた。細川氏らとの戦いの責任者として、本願寺は、下間兄弟を犠牲にしたのであろう。天文七年五月にも、小一揆
側の加賀の国人洲崎の召し使った堀という者が、本願寺に出頭してきたので、これを殺害した。戦国大名化した本願寺としては、支配統制の貫徹のために、この
ような過酷な手段をも採用しなければならなかった。(『本願寺百年戦争』176,177)



ここに述べられている教団統制は本願寺が一向一揆当時いかに地方末端に至るまで、その直接統治を推し進めようとしたかの裏づけともなろう。

勘気=破門については、藤木久志氏が、上記において引用された『本福寺跡書』の一節により、同書を著した同寺の住職、明誓の父、明宗(三上宗次)が、生涯に三度も本願寺から破門され、最後は一族の者十人とともに、ついに餓死にまで追い込まれたことを紹介している(「飢餓と戦争からみた一向一揆」『講座 蓮如 第一巻』)。当時の食糧事情、社会状況の厳しさの中では、破門をされ、村落共同体から疎外されるということは直接生命の危険につながるのであって、現在の言葉で言うと生存権を剥奪されるに等しい厳しい処罰であることがわかる。

実如の救援要求に応じて、越前に攻め入った一揆の門徒団を、数百隻の兵船を琵琶湖海津に 回船して無事に退却させるなど、論功はなはだしかったかに思われる堅田本福寺の明宗を三度も破門した理由はここではわからないが、あまり理にかなったもの
とも思えない。気まぐれな破門権の乱用があったのではなかろうか。



後生御免については、『真宗新辞典』に次のようにある、



中世の本願寺教団でおこなわれた破門の取り消しのこと。また、往生の承 認のこと。実悟の『本願寺作法之次第』に「いかなる大罪のものも本願寺の坊主のゆるさるれば仏に成とて、侘びごとを申てこれを後生の御免許と申」という京
都での風聞があったことがみえ、「実如の御代にいたるまでは、後生の御免と申事は承もおよばず」と批判し、天文年間以来のこととしている。



まさに、ヨーロッパにおいて、中世のキリスト教会が腐敗堕落したと批判され、宗教改革の大きな原因の一つとなった、救いの免罪符と同質のことが、僧侶の権力として濫用されたことになる。まさに、救いの私物化である。

前述のように天候その他によって不安定な食糧事情に加え、戦乱の世の中にあって寿命を まっとうできる事が難しいような当時の状況にあって、来世の極楽往生が約束されるということの救いが、蓮如以来本願寺が人々に、ある時は熱狂をもって迎え
られていった理由であろう。その救いの拠り処である後生が、坊主のさじ加減で取り消されたり、復活したりするとしたら、これほど罪深いことはなかろう。

また、上記『本願寺百年戦争』からの引用文において、本願寺が下間筑前頼秀と下間備中頼 盛を殺害させた件の経緯については、本願寺内の権力争いがいかに一向一揆に対する統治政策に影響を与えたかということにおいて重要であると思われるので、
さらに『本願寺百年戦争』に基づいて、もう少しまとめてみたい。



加賀は、本願寺と一向一揆の関わりを考える上で非常に重要なところであるが、その一向一揆支配の最初から最後まで体制が同じであったわけではない。

永正三年(1506)クーデターによって足 利幕府の実権を握った細川政元との友好関係にあった本願寺実如は、反対勢力打倒に協力するよう政元に要求され、諸国の門徒に蜂起を命じ、越前・加賀門徒の
連合した一向一揆が、未だに朝倉氏の支配を崩せなかった越前の領内に侵入した。結局この時は、多大の犠牲を払った上敗北。吉崎道場をはじめ本願寺系の寺院
はことごとく破壊された。この結果、永禄十年(1567)頃まで、越前にあった本覚寺、超勝寺などの有力寺院は加賀に退避する事になったのである。

加賀ではそれまで、村々が連合した組の代表者が寄り集まった自治組織である郡が四つあり、それぞれが御山として、本泉寺、松岡寺、光教寺、願得寺の4ヶ寺を護持していた。

そこへ越前の有力寺院である本覚寺、超勝寺が居を構えることになって勢力争いが起きる事になった。

一方本願寺では、実如の没後、証如がわずか十歳で門主職につくが(血統主義の弊害が如実に現れた政策決定に思われるが)、実権があろうはずはなく、本願寺の事務総長格である前述の下間筑前頼秀と下間備中頼盛兄弟が握ることになった。彼らは本願寺の領国支配強化を狙い、加賀においてはよそものであった本覚寺、超勝寺と組んで(大一揆)、在地の四ヶ寺側の勢力(小一揆)と戦うことになったのである(享禄の錯乱=大小一揆)。まさに、本願寺が、自己の門徒、寺院を殺戮、破壊するために仕掛けた戦いであり、三河などの諸国に指令して、大一揆側に協力するために派兵するように命じているのである。

この結果は、大一揆側の完勝に終わり、反対側の小一揆の人々は皆、本願寺より破門の身になった(享禄四年 1531)。そして、本願寺の加賀を直轄する領国支配体制が築かれていったのである。

ところが、下間筑前頼秀と下間備中頼盛兄弟は、今度は、本願寺のお膝元での対応に追われることになる。翌天文元年(1532)になると畿内において も激しい一向一揆が続発し、本願寺は細川家の総領となった細川晴元と、当初は協力関係を築いたが、一揆勢が伸張するにつれ、対立するようになっていった。
天文元年八月、晴元は、近江の一向一揆に手を焼いていた六角定頼に命じて、京都二十一ヶ寺のほか町衆を主とする法華宗徒三、四千人をも動員
させ、山科本願寺を焼き討ちさせた。このさい、下間筑前頼秀は、加賀より船で帰京、ついで証如の大阪石山本願寺入りに従ったといわれる。

しかしその後、本願寺の戦国領主としての勢力は拡張を続け、証如は年頭には皇室に物を献上、勅願寺としての礼を厚くすることによって、朝廷より、僧官としての最高位の権僧正に任ぜられるまでになった(天文十八年 1549)。このような状況の中で、天文十二年、証如の長男、顕如が生まれると、翌十三年、細川晴元は自分の娘との婚約を申し入れてきた。戦国大名間によくみられた、政略結婚に他ならない。

このようにして、一時は本願寺の実権を握った下間筑前頼秀と下間備中頼盛兄弟は、本願寺内の権力争いに敗れ、本願寺が対立していた時の細川氏らとの戦いの責任者として、あわれ自分が仕えた本願寺に殺害されることになったのである(天文七年、八年 1538.39))。



以上の経緯より理解できることは、本願寺が当時、戦国領主そのものであって、今で言う宗教組織からは程遠いものであったということである。一向一揆勢力は完全に、領主としての本願寺の、勢力拡張の道具として利用されていただけだったことがよくわかる。



ここで、本願寺がどのように領地支配を行おうとしていたかをみてみたい。

本願寺は、重要な地域には坊官を送り行政官として直接統治を図った。

ちなみに坊官とは、「門跡寺院の寺務を主管する役人。法橋・法眼・法印に叙せられ法体で帯刀した。本願寺では下間衆・一家衆寺院が寺務・宗務を管掌して来たが、永禄十二年(1569)門 跡寺院勅許にともない坊官制を採用し下間氏が職を占有した。末寺への伝達、末寺門徒の申物の取次ぎ、朝廷・公家・幕府・武家との交渉等、本山の枢要な職を
占める権限をもった。近代の教団機構の改革にともない、本願寺派は明治元年、高田派は同四年、大谷派は同五年に坊官・家臣の制を廃した『真宗新辞典』」と
いう機構制度であり、社会との接点の部分、渉外部門を一握りの権益を独占した人々が引き受けるという制度である。

このような一方的な統治は、当然領地においても反感を買う可能性を持つ。

例えば、越前においては、織田信長が朝倉義景を討ったことはよく知られているが、その 後、信長方の武将を一向一揆が打倒し、短期間であるが本願寺の領国支配が成立するのである。そのとき本願寺は坊官、下間法橋頼照を越前の守護として派遣、
その他数名の坊官等を領国支配の行政官として任命している。

そこで坊官たちが、年貢を直接本願寺の収益とすること等を一方的に通達したことに対し て、また、現地の行政官が大名政権下なみの田畠査定を行わせたことに対して、一揆勢の中での不満が高まっていった。皮肉なことに宗教一揆であるはずの一向
一揆が、本願寺と大坊主という新たな領地支配者に対して反乱を企てるということが起こっているのである。実際両者の間には武力衝突が起き、天正二年十一月
には、下間法橋頼照などにたいして数千人の一揆勢が攻撃している。





あとがき

一向一揆のすべてを網羅して検証するなどということはとても出来ないこ とであり、私の手におえることでもなければ任でもない。この拙稿は本願寺教団がどう関わり、どう位置付けようとしてきたかということを考える際に、重要と
思われる点を私なりに掬い上げようとした試みであった。

どうして教団内で一向一揆がきちんと語られることがないのだろう、という素朴な疑問が今 回の試みにつながったのであるが、そこで理解したことは、この重要な歴史的局面においても本願寺は、主体的、積極的に門徒の社会的欲求を掬い上げていく形
で、宗教的理想社会を作り上げようとして、一向一揆に関わったのではないということである。



前回のレポート「真宗教団は日本人の合理的思考を促してきたか?

—で述べたことは、浄土真宗が、宗祖親鸞の教義によって、日本の宗教の中で唯一、日本人の、迷信俗信や身分構造の非合理性を解き放ち、合理的(真理に合致するという意味で)な社会体系を構築することを社会に提言できる宗教であったにもかかわらず、その責務を果たさなかった宗教家としての責任を、それがたとえ幕藩体制下のことであっても、眼をそらすべきではないということであった。

そのときにはまだ、一向一揆について、まさに日本においての合理的な(市民革命につながるような)社会体制の萌芽が一向一揆であったにもかかわらず、周囲の不可抗力的な力によって崩壊させられ、幕藩体制につながっていったというふうに理解していた。多くの宗門内の人々や、浄土真宗に理解を寄せる人々も、まだそのような理解をしているのではないだろうか。



しかし今回そうではないと言う事が理解できたと思う。本願寺という教団そのものに、門徒 という信仰者を中心とした社会を作っていこうという思想も、仕組みもなかったために、一向一揆という社会変革の運動をまとめ上げていくことが出来ず、内部
崩壊をともなって、信長、秀吉という、封建体制に結びつく別の新興勢力に屈服していったということではないだろうか。

本願寺は真俗二諦の使い分けで社会の変遷の中を生き延びてきたというのは、実は一向一揆の戦国時代においてもあてはまるのであり、一向一揆を自らの領国支配(それが当時の社会の体制であった)に利用し、「進軍すれば往生極楽、退却すれば無間地獄」という、当時の社会状況にまさに適応した俗諦教義で、教団為本を全うしたのである。



最初にも述べたように、積極的に社会に関わっていくというのは、社会が常に変化するもの であるという前提の上での事である。「信心の社会性」の議論で気になるのは、「社会に適応できるような教団でなければならない」というような意見である。
それでは、そのときそのときの権力の顔色を伺い、社会の変化に合わせて俗諦を作り変えて教団が生き延びてきたことの繰り返しである。一向一揆後の社会にお
いて、教団と大坊主などの上層部は生き延びたかもしれないが、信仰に生きられる新しい社会を作り上げようとした門徒も寺院も滅び、離れていったのである。

そして、その後に、宗教家に対する信頼は地に落ち、社会のことと宗教は関係ないという認識を持った人々が大多数を占める社会に日本はなった。社会に対して、これからの指針を提言できない宗教は、本来の宗教としては社会のほうから必要とされないのである。

本願寺が必死になって一宗として社会において独立しようとし始めたときから、この、教団為本の動きが始まっているように思われる。



教団は蓮如の時代に飛躍的発展を遂げるが、その原動力になったのは惣村ぐるみの布教だと いわれる。蓮如の有名な言葉「村において本願寺の信仰をもたしたいものが三人ある。その三人とは坊主と乙名と年寄りである。この三人が信者になれば、その
他の末々のものたちは村ぐるみが本願寺の門徒になり、真宗は繁盛するであろう。」に、よく現れている。そして蓮如は惣村の農民たちを「講」という信仰と生
活の組織に組み込み、本願寺を頂点とする教団の組織の中に入っていったのである。

そういう意味で、蓮如は社会の動きをよく捉え、その上で本願寺教団を強 化することに成功したといえる。しかしその後は、よく知られているように、一揆の動きを容認したり、抑えようとしたり一貫した指針を与えることはなかっ
た。教団が不利な形で批判されると一揆勢を押さえにかかるということでしかなかった。

高橋事久氏は言う、「蓮如が示す信心=念仏の内実は、社会性、歴史性が希薄であって、自身の心中深きところに形成せよというものであった。つまり観念論に陥り、歴史=王法、世俗に対する緊迫感は無く、歴史を変革する、意義たらしめる還相性が欠落しているのであった。—略— 信長ともっともよく戦ったのは一向一揆であるが、確かにそこには「佛敵打倒」という偉大さのダイナミズムがあった。しかしそこには、新しい日本創造のための理想が掛けていた。—略— 「佛敵打倒」というダイナミズムが、歴史にいかなる社会システムをもたらすかという建設が用意されていなかったといえよう。」(「蓮如の王法と仏法」『日本の社会と真宗』千葉乗隆編)



教団の中に、社会変革(政治、経済も含めて)に 関わっていこうという意味での社会性が欠如しているという状況は大変に根が深いように思われる。一部には個人的に社会に向かって発言しようとしている人た
ちがいるが、教団が全体として動くということにはなっていない。それどころか、社会への提言が出来るような組織に自らが変わっていくことへの抵抗の強さが
目立つような気がしてならない。池田行信氏がいうように、教団内の議論の多くは、未だにお聖教の一字一句をこねくり回してどう解釈するかというような、社
会と向き合う組織としての教団のあり方に対して何の解決も示しえない不毛な教学論に思える(『真宗教団の思想と行動』)。氏の言うように真宗教団独自の、
社会への貢献を具体化すべき政策論争を含んだ教学論、教団論の形成がなければ、何も変わらないだろう。いつの日か社会が、真宗の僧侶に対して政治経済の動
きについての助言を求めるような時が来るのだろうか。



最後に、加賀の一向一揆のなかで最後まで、信長配下の柴田勝家に対して抵抗を続け、最後に残った三百人ほどが柴田勝家、前田利家らに捕らえられて磔にされたという山内衆の拠点、鳥越城のあった場所、鳥越村の話を紹介しておきたい。

ここ鳥越村では一向一揆を、自分たちのアイデンティティーを見つめるきっかけとして、誇りを持って見直していこうということで、平成十三年「一向一揆歴史館」を村営で開いた。鳥越城跡も一部復元され、毎年八月には「一向一揆まつり」も催される。

五木寛之氏も『日本人のこころ 3』で紹介しているように、逆賊ともみられがちな一向一 揆を、自分たちの誇りとして自治体が取上げるのは勇気の要ることだったのではないだろうか。私も現地に行ってみたが、大谷派の金沢別院がだいぶ協力をして
いるとの事であった。(村の中の食堂には「一揆そば」というメニューもあって、ほほえましく、おいしくいただいたことであった。)

このような、民衆の側、門徒の側に立った、浄土真宗による社会変革を誇りに思えるような仕組みを、支援するようなことを本願寺派もすすめるべきである、ということを私の提言として筆をおくことにする。



寺前逸雄