カナダ年末年始追想

2018年11月28日 カテゴリー:住職のおはなし

北米のお正月はあっけなくやってきます。

キリスト教文化の地域ですからクリスマスは盛大です。10月末にはもう街のあちこちで飾り付けが行われ、12月にはいると多くの家々で色とりどりの工夫を凝らした電球による窓飾りが街に彩りを添えます。私が本願寺の開教使として赴任していましたカナダでは、まず間違いなく雪に覆われた時期ですので、夜、街を歩くと家々の赤や青の電球が雪の地面に光を落とし幻想の世界を行く趣がありました。



キリスト教の国ではクリスマスは最大の宗教行事ですので殆どの人が自分の属する教会に行って牧師さんのお説教を聞きます。そして家に帰ってきて家族と本当に
親しい人で静かに晩餐をするのです。ですから日本のお正月のようなもので遠くにいる子供達も飛行機で4、5時間かけて帰省しますし、クリスマス当日の町中
は、マクドナルドのようなファーストフードの店に至るまで閉まってしまい閑散としています。   (写真:トロントのおしゃれエリアのひとつヨークビルのクリスマス)

こ のあいだ雑誌を見ていたら海外のクリスマスを楽しみに行こうという旅行特集があって苦笑いをしてしまいました。日本人はクリスマスというとなにか華やかな
パーティーのようなものばかり想像しているようですが、欧米人は一般的な日本人と比べ物にならないくらい宗教を意識した生活をしているということが理解できないために、クリスマスが宗教行事だということを忘れているようです。

かくいう私も最初の年に事情を知らずにクリスマス休暇でニューヨークに遊びに行き、こんな大きな街なんだからクリスマスでも何かしらやっているだろうと、
たかをくくっていたところ、25日の当日になって、交通機関を含め街の殆どが機能停止の状態になっていることを知り、食べ物を確保するだけで精一杯で、しんと静まり返った街をとぼとぼと歩いたことを憶えています。

(宗教意識と言うと思いだすのがキリスト教の信者でもないのに教会で結婚式を上げるカップルの事です。人生の節目を自分の属する教会での儀式によって意味づけしようとする欧米のキリスト教信者にとって、日本の若者が特に自分達の国にまでやってきて、キリスト教会に所属してもいないのにそこで結婚式を上げるのは
、滑稽を通り越して感情を害される類のことなのです。どうか馬鹿なことをやめるようにしてもらいたいものです。)

クリスマスのことばかりになってしまいましたが、それが終わり、もらったプレゼントを眺めたりして余韻に浸っているうちに新年がやってきます。トロントのよ
うに大きな鐘つき堂があるお寺は門信徒の方々が除夜の鐘をつきにいきます。(気温がマイナス30度にもなる野外での鐘つきは相当の覚悟がいりますが)そして、ほとんどのお寺で元日に修正会が勤まり開教使の先生が年頭の挨拶をされます。

よくいわれることですが欧米には時間が循環するという感覚がないようです。ですから新年に改まって(回っている時間をゼロに戻して)時と共に気持を新たにするという雰囲気は日本に比べて希薄で、ただ時の流れが真っ直ぐに積み重なっていくわけですから街の新年は淡々としていますし、たまに若い人達がどんちゃん騒ぎをやったりするぐらいです。私にとっては、お寺での修正会が新年の気持の区切りをつける唯一の機会だったように思います。街は新年の2日から会社や学校が平常どおりの活動を始め Happy New Yearという挨拶が飛び交います。

こ のように北米での年末年始というものはかの地がキリスト教に根ざした所であるということを改めて感じさせられる時期でしたが、そのため却って、仏教、浄土真宗に本当に根ざした生活とは、どういうものかということを日本でのように世間の雑事に紛れない宗教意識として考えることができたのではないかと思っています。今、慌ただしい年末の時間の中でこそ持つべき余裕といえるかも知れません。

最後に、皆様にとっても私にとっても、お念仏をいただいたことによって、生きていること自体を感謝の気持で送れる日々の新年でありますよう念じ申し上げます。

All the very best for your new year.
合掌  真願寺住職    寺前逸雄